「目を開けると別世界が広がっていて、素敵な気持ちになるの」
女神の話を聞く事にしたオレだったが、突然の自慢話に頭が混乱してしまった。
つまりだな…?
気がつかない間に意識が飛んで、新しい別の世界にたどり着いている……と、いうことか?
夢を見ている感覚に近いのかもな?
そう伝えると「そうかもね?」なんて澄ました顔で返してくれた。
―第9話―
話を聞いて分かったのだが、女神には放浪癖があるらしい。
それと、オレに会った時の話もしてくれた。
今では、思うだけでオレの元へ飛んでこれるようになったと得意げに説明してくれた。(オレは毎回迷惑してたんだがな?)
しかし、初めてオレの目の前に来た時は、偶然辿り着いたんだと言っていた。
…えっと、たしかあれは。
今は年越しして冬だから…去年の春の事だった。
陽の光が気持ちよくて、部屋の外に広がる原っぱでひっくり返っていたオレに、頭の上から声をかけたやつがいた。
なんて会話をしたんだったかな……。
「ここの空は広いね。どこまで広がっているのかしら」だったか。
ああ、あの後たしか。
オレが作業に追われ始めたのもあって…「随分のんきな事を言うやつが来たな」と、忙しく回る頭の中で厄介に思っていた。
今振り返ると、そんな出会い方してたんだな?なんて、ちょっと懐かしくさえ思えたのだ。
それを伝えると、女神は窓を見やって、オレと同じく懐かしさに浸るような……
しかし、どこかぼんやりとした顔をしていた。
「新しい世界に行くとね。記憶がなくなっちゃうの」
「……記憶が……なくなる……?…覚えてるのか?」
「うん?んー…ぼんやりとは。でも、覚えておこうと思った景色も、大事に取っておこうと思ってた気持ちも、何故か忘れてしまうの」
「……」
「気が付くと知らない場所に飛んでしまっている。だから、どんなところを通ってきたのか、分からない。……もちろん、帰り道も、ね」
「…他の世界に行った事を、覚えている……?」
「ええ、どこか知らない世界を飛び回ってることだけは、覚えてるわ それがとっても楽しいことも」
そう。
こいつは…、気付いていたんだ……。
他の空想世界の存在に…。
ここに来るやつはみんな、初めから記憶が無い。
きっと他の空想世界から来たやつもいるんだろうけど、みんな、綺麗さっぱり無くなってるのだ。
どの空想人物に聞いてみても、この空の事しか知らないし、話さない。
それがここの常識で、管理を任されたオレも同様に、初めから記憶が無い。
…まあ、オレは管理をしているからその事は知っていたけど。他の空想世界にも影響が出ないよう、秘密にしていたんだ。
で、それもあって。
ずっとここに住んでいるオレからすると、『知らない世界へ辿り着く』という事は、やっぱり未知の体験だった。
「怖くはないのか?」
そっとそう尋ねてみると、アホ天使は「面白いでしょ?」と笑ってみせた。
信じられない。こいつはそんな理解しがたい状況を楽しんでいたのだ。
ぜってー道中で頭のネジ落として来てるだろ。頭の毛だって、なんかふわっとしてるしさ?
内心そう悪態を付きつつ、渋い顔をしているオレを見て再び笑った。
「あなたも体験してみたら分かるわ」
「オレはここを離れられないから」
「ホント、仕事一筋ね」
「それもあるけど」
「オレは、初めから記憶が無いんだ。今ある記憶が無くなるのは、ちょっと怖い」
反射的に口が開いて、先程思ったことを説明していた。
「そうなの?」
「えっ。そうだぞ……?むしろお前が”記憶を無くした事”を覚えてる事にびっくりしてる」
アホ毛天使はその事を理解してくれたんだか、してないんだか、よく分からなかったけれど。
「少し気になってくれた?」
嬉しそうな顔をして、顔を覗き込んで来た。
「ああ。なったなった。それにしても、覚えていても結局忘れてしまうのは何でだろう……?」
ふとそんな問いを出したオレだったが、出てくるのはどれも想像ばかりで、本当の事を答えられるやつはいなかった。
もっと早く気付いていれば、もう少し別の話ができたのかもしれないんだけどな。
今更思っても、もう、前には戻れない。
黒い黒い世界…。どこまでも広がっている黒。
それは一筋の光も存在しない、全てを飲み込むような深い闇。
体全体にずしりと重みがかかり体が思うように動かない…。
ゆっくり、ゆっくりと、底へと沈んでいく。
ここは…。
「深い、闇の世界へようこそ」
暗くて、真っ黒な、人影がオレの体を覆う。
「君を、迎えに来たよ」
体を締め上げる、苦しい。
「そう、苦しいねぇ。けど」
「今ならこれだけの苦しみで済むんだ。とってもいいだろう?お得だろう?」
そう、囁きながら、苦しみを与えてくるそれは。
ダメだ、何だか頭が回らなくなって。
「そうだねえ。もうすぐ楽しい時間も終わっちゃうからさ?」
「こっちにおいでよ。せっかくここで意思疎通が取れたのも何かの縁ってやつさ。今後は俺達が、責任を持って可愛がってあげるからさ……」
お、れ。たち、?
「あーあ。こんなに君には選択肢が与えられてたのにさ。活かそうと思わない?思わなかったね、あはははは」
な、にを、
「分かんない?まそうだよね、いやあ。あの話さーー!途中で止まっちゃうからっ、もう出てこれないかと思ったよ。ほんとほんと!」
「これでもずっと心配はしてたんだけどね。また思い出してくれて嬉しかったね、これは本当だよ?あ、無駄なおしゃべりが多いね、誰かが困っちゃうからやめようやめよう」
まさか、おま、え。
「そうそう。よーやく分かったね?でも残念だなあ。君はその未練タラタラどうしようもない心ゆえにNOと言い放つのだった!はいお誘い失敗交渉決裂ーー!じゃあもう仕方ないよね」
ああ。そんな存在に、なるくらいならオレは、このまま。
「いられると思う?君が動かないなら、代わりの人材。もらっていくから」
か、わり…?
「また会おう!ね、俺も消えちゃうけどさぁ、お前の事覚えておくよう心にとどめておくよ」
影のてっぺんがニタリ、と笑った。その瞬間、
「次会ったらその憎ったらしい白ひっぺ剥がして真っ黒にしてやる」
急に解放されて、息ができるようになって、溺れそうになるオレをよそに。
そいつは跡形もなく、姿を消してしまった。