未題

夕刻。二日目の勉強会を終えた後、僕はハルくんを屋敷の書斎へ呼び出した。従者のユサちゃんに、書斎まで二人分のお茶を持ってきてもらっていたため、部屋の中は僅かに物音がしている。ユサちゃんは何も言わなかったが、僕がいつもと違う様子なのを感じ取っているようだった。

そうだ。僕はこの屋敷で、誰かとお茶を飲むことすらなかったのだ。それに気付いて僕も心なしか、緊張していた。支度を終えたユサを下がらせ、その時を待つ。しばらくして、部屋をノックする音が響いた。

「開いているよ どうぞ」

ゆっくりと扉を開けて現れた彼は、不服な様子で部屋に入って来た。

「よく来てくれたね、ハルくん」
「……何でオレだけ呼び出されたんだ……?」
「彼女がこの場にいたら、腰を落ち着けて会話が出来ると思うかい?」

彼は、その状況を思い浮かべたのか苦い顔を返した。部屋の右手へ案内する。テーブルと向かい合ったソファーがあり、手前に座るよう手で示した。初めて座るものだからか、そおっと丁寧に座った彼は、まだどこか落ち着かない様子だった。

「今度、彼女と一緒にお茶会に誘うから。今日は、僕と二人きりの会話に付き合う事を許してくれるかな」

そう詫びながら、サイドスタンドに用意されていたティーカップを取り、彼のそばに1つ置く。彼は、カップを持って、「まあいいけど」と言ってから一口飲む。自慢の従者が淹れた、優しい香りがこちらにも漂ってくる。少し気がほっとした様子の彼を見て、こちらも肩の力がゆっくりと抜けていった。

「ありがとう」

「早速だが、君達はどうして旅を?」
「あぁ……。そういや言いそびれてたな……」

「あいつ、オレと初めて会ったとき、洞窟の檻の中にいたんだ」

目を見開いた。洞窟………檻の中…………。やけに鮮明に想像が思い付く。その理由は、僕の思い違いではないと予感していた。

「それで?」
「それで……。自由に空を飛びたい、って言うのに何もしないで閉じ籠ってて……放っておけなくて……だから、オレ、一緒に連れていってやる、って言ったんだ。そしたら自分で檻を壊すし、オレだって洞窟の出口が分からないのに、連れていってくれるんだろ、って人を振り回すし……」

(※涼春サイドは「それで……」のところから回想としてバックにこれまでのコマを流す)

「色々あったな……。そんなに長く一緒にいたわけじゃないけどさ。やっぱり、オレがいなくなる前に、あいつの事何とかしてやりたいんだ」
「そうだったんだね」
「プラントさんにも、世界を変えてくれ、って頼まれたし。…………なんかオレ……すごい事になっちまったな……」
「……うん?そういえば」

ふと気になり話題を戻す。

「君自身は、どうして旅をしたかったんだい?彼女に出会う前から、何か目的があって、一人で旅をしていたのかな?」
「いや……っ」

彼は、それまで真っ直ぐにこちらに向けていた視線を反らした。表情が、変わった。少し気を詰めたような、自分でも分からないといったような恥ずかしそうな顔をしていた。

「……よく、覚えてない。ずっと、ずっと。暗い洞窟の中をさ迷っていた気は、するんだけど……」

「オレ、現実から……来たんだ……。それで……っ、元の世界に戻る方法が、見つからなくて」

そう言って、俯いてしまった。

「現実…………」

僕も思わず、彼の言葉を反復してしまう。
いつだったか、本で読んだことがある。現実。この空想世界よりも広く、存在がしっかりしたところだという。そして何より、実体を持った人間達が支配する世界……。彼らは自らの力で新たな人間を産み出し、知恵を働かせてより発展してきた。ほとんど、嘘もいいような伝承の話だが……。

「…………」

じっと、彼を見る。彼は、たしかに彼女を連れてこの地まで来た。それに、姿勢がしっかりとしていて、それだけの器があることも確かだ。「現実から来た」……信じがたい発言だが、一方でこれを否定する訳を僕は持ち合わせていな(このせかいはね、ぜんぶわたしがつくったんだよ!) …………。

「秋良?」
「……君を信じよう。僅かだが、現実という世界の伝承は知っているが」

その途端ハッとした顔になる彼だったが、

「僕も詳しくは知らないんだ」
「そっか……」

申し訳なさそうに返す僕を見て、彼は肩を落とした。

「だが、君が無事に帰る事が出来るよう、最大限の協力をすると約束するよ」
「本当か……?あ、ありがとな。秋良」
「……いいんだよ。君は相応の働きをしてくれている。そのくらい……、魔王としても相応しい対価だと判断するだろう」

「ひとつお願いだ」

そう言ってから、人差し指を立てて口の前へ持っていく。

「……『君が現実から来た』という事は他言しないように。知らない世界の事に興味を持つ住民は少なからず存在する。あまり広まってしまうと、君が狙われる可能性がある」

「……あー。オレ、プラントさんに言っちまったな……」

彼はばつの悪そうな顔をして伝えてくる。それが何だか、悪戯が見つかった子供のようで……。僕は、抱えていた悩みを一時だけ、そっと仕舞い込んでから、微笑んだ。

「彼女のような守護神は、全面的に君達を味方している。心配は要らないだろう」

見ているだけで分かる。彼は本当に人柄がいい。この心地良い時間が惜しいが、そろそろ解放しなければ。

(ここでフェードアウト)

「ハルくん。また、来てくれるかな。今度は、君のいた世界の話でも」
「おう」

扉の前まで先導していた僕は、自ら扉を開ける。この部屋に来たときよりも幾分か表情のすっきりした彼を見送る。そうしてしばらく、夕日の色の蝋燭の灯りに照らされた彼が去っていくまで、心地の良い気配が消えるまで待ってから、扉を閉める。ゆっくりと席に戻った僕は。「はあぁ……」その途端、溜め込んでいた息を吐き、手で額を押さつけていた。

…………久しく、聞いていなかったな。幼い、君の声がはっきりと聞こえた気がした。『現実から来た』嘘かもしれないし、本当かもしれない。だが、彼女の手がかかっていない彼の、彼自身の口から出た言葉を、僕は本当であってほしいと切に願っていた。