11* 天獄

黒い壁がどこまでも広がり、ハートの切れ端が散っている白い地平線。
屋上を抜けた先の狭い亜空間に、顔に白紙を貼り付けた魔王がいた。

白いスポットライトに当てられて、ゆるいカーブを描いたソファーにずぶずぶとうずもれている。
その周りを囲むように、愛しい姿をした彼らが魔王の振りまく愛を享受し王に奉仕をしていた。
その様子にうっとり見惚れ至極満足した魔王は、いつの間にか端にいた、白紙を付けたもう一人の彼が立っているのを見つけた。

気を良くした魔王は、じっと見つめた後、その愛らしい佇まいにたまらず、声をかける。

「どうしてそんなに遠くにいるのかな」
「うん、なかなかどうして。君も、立派なハル君じゃないか……」

話しかけられた彼は、降ろした腕に手を添えたまま、あっ、とかその、とか軽く声を漏らしてもじもじと震えていた。

「おいで」

声だけは優しい調子で彼を呼び寄せ、おずおずとしつつもゆっくりと歩いて近寄って来るのを待った。
そうして愛しの彼が、体を伸ばさずとも手の届く場所まで来ると、魔王は彼の腰に手を添え自身に引き寄せ、顔を覗き込む。

「自信がないのかい?いいよ、君もすぐ慣れるさ――」

彼の顔に張り付いていた紙をほんの少しだけペラリとめくって彼の具合を確認した後、ニタリと笑う。そうしてその怯える口に顔を近づけた魔王は、一度目は優しく口付けをし、ゆっくりと離し、すぐにまた顔を近付ける。今度は手を添え直してしっかりと口付けをし、ほんの少し浮かしたかと思えばまたすぐに食らい、反芻し、互いの唾液が混ざりあう音が響く程に、甘く蕩けた表情になって溶けていく彼を見つめた。そうしてしばらく焦がすような熱い眼差しで観察した後、魔王は彼に腰に手を添えたままの姿勢で語りかける。

「君はたしか、甘い物が好きだったね」
「ここには、君の好きな物がいくらでもあるよ。好きなだけ与えよう。何がいいんだい?」

(と言いながらまるで涼春の様子に気付かず、側にいた彼らが差し出してきた菓子を受け取り、彼の口に少しずつ突っ込んでいく)(いつの間にか周りの彼らが、愛しの彼の腕や体に絡みつくように腕を回し、魔王の愛を受け取るよう、促してくる)

言われるがまま、されるがままに、膨大な求愛を受け続けた彼は、だらりとした様子になり、ただただ幸せそうな顔を向ける。魔王は周りの彼らの目も忘れ、その溶けかけの小さな体を抱きかかえて地に押し倒した。交互に上がった息、ドクドクと体に溜まっていく熱い何かが魔王の中を駆け巡り責め立てていく。汗が垂れるのも構わず、不敵な笑みを貼り付けたまま見下ろした。彼のフード付きの柔らかな上着に、眩しい程のピンク色に染まる愛らしいネクタイに、薄く纏う白いシャツに、手をかけ次々に剥いでいく。そうして彼が、こちらの頬に向かって手を添えようと伸ばし、魔王は彼の、露わになった白いそれに手をかけようとした時だった。

 

 

「秋良」

 

 

全身がびくりと震え上がった。

「…っは」

不意に視界が白くなった。漏らしかけたはずの呼吸すらも急停止して、凝視してしまう。
露わになった真っ白な世界の中で。握りしめたぐしゃぐしゃの白紙を胸に、真っすぐに自分を見つめる愛色の、”見知った二つの目”が、生涯感じた事もない程に、熱く強く、脆い殻を纏っていた自分を突き破った。

「…………」
「…………」

「……せんぱい。どうして、そこで……遠慮しちゃうんですか……」

「いいんです、よ、ほら。オレは、あなたの為に存在(い)るんですから」

言い終わるや否や、彼の腕を掴み力強く引っ張る。うっ、と小さく呻いた声が聞こえたのと同時に。グッと力を込めた大きな手は、彼を離さんばかりに強く抱き締めた。

「…………ッ」

声にならないほどの小さな悲鳴が漏れる。訳が分からず抱き締められるがままの涼春は、

「…………せんぱい…?」

秋良の顔が埋もれたその肩が、冷たく染みるのを感じた。そうして涼春は、そっとその強張った背中を抱き締め、撫でた。
しばらくそうやって、黙って撫でられているままだった秋良が、口を開いた。

「僕は君を……、無理矢理に……」

「望まない、形で。……僕の思い通りにしてしまったんだ……」
「いいんですよ」

「そして、君との約束を破って、君が大事にしていた彼女に、力を振るった。なのに彼女を止める事が出来なかった。その結果がこの様だ。僕は何一つ成し得なかった。薄れていく意識の中で。大事な人や世界が、ただただ壊れていく様を傍観する事しか出来なかった」
「本当のオレだって。今は、そんな事気にしていないはずです」
「……君は」

「オレが。あなたの知る『ハル君』ではない事は、ずっとずっと前から知っていたんです」
「でも。あなたが、オレという光を知って、届かないと諦めてもなお、オレの為に想い尽くして心に留めてくれたおかげで。オレは今、あなたの為に、存在(い)られるんです。あなたの為を想う事が出来て、あなたが創ったこの世界で、一緒に抱き合うことが出来たんです」
「それってすごく。『あなたが一途な人だ』って事になりませんか?」

「…………」

「悪い事をしたから、した気がするから。って、言って。そこで顔を背けちゃうのはだめですよ?
あなたが役目を背負ったせいで、誰かに、辛い運命を押し付けてしまった過去もあったかもしれないけど、それもきっと、『その誰かの幸せを親身に願ったからこそ』、だったはずなんです。あなたが、いっぱいいーっぱい!オレやオレの周りの人達を想ってくれたおかげで。いつだって全身全霊を使って気にかけてくれたおかげで。救われた人達だって、いるんです。救われた世界だって、あるんです。あなたはそういう『目に見えない、小さな人達』の事を、もう少し知ってあげるべきです」
「………精一杯だったんだ。僕一人では…とても、そこまでは………」
「だからこそ、今、言うべきことがあるんじゃないですか?」

「僕は……」
「いや。僕を………」

 

 

 

「『救ってくれ』だなんて。甘い事、言わないよね」

 

突然、背後から秋良の声が聞こえる。せんぱ、と言いかけた涼春は、秋良の手ですかさず転がされ、声を上げた。
二人は、先程までいた場所がえぐれて奈落が現れたのを見てから、その先に立つ人物を見た。

「あれって……!」
「…………まさか、」

秋良と同じ顔をした、背の小さな、少年のような秋良が。黒い影に覆われ、くすぶる影が宙に揺らめいて見えた。

「魔王の……僕だ…………」