8* 夕雨の先輩後輩

 

「佐ヶ浦先輩、入っていってください」

薄暗く閑散とした校舎入口、愛しい後輩の手で掲げられた傘を見て、僕は立ち尽くしていた。下校のピークが過ぎ、普段よりは早く終えられた生徒会で晴れ晴れとしていたのだが…。外はあいにくの雨だった。いや、とか、ううん、とか迷った顔をしている僕に向かって、催促するハル君は、いつもより強めの口調だった。

「ダメです!絶対入ってください」

ムッとした眉を曲げたハル君は、遠く、校門の先の方を見つめた。

「次期生徒会役員候補に推薦されなければ、オレだけ濡れて帰ったってよかったんですけど……」
(選挙習慣の立て札やポスターが掲示されている)
「そうでなくとも、君が風邪を引いたら大事だ」

「そう言うと思いました。なので!」

彼に無理矢理に傘を押し付けられ。

「我慢してください」

柄を握った上から手を握ってきた。僕の手が収まり切らないほどに小さな手だったが、握ってくる手の力は強かった。

「っ。ハルく…」

歩き出してしまったので、仕方がない。雨で濡らさないよう傘を彼の方へと傾け、足を揃えて校門へと向かう。ハル君は、意を決したような顔で正面を見据えている。

(ああ、この校門を過ぎたら…。)
(意識が…飛んで………。)
(今日という1日が、過ぎ去ってしまう…。)

途端にぼやけてきた脳内に、胸打つ心臓の音が、響いて聞こえてきそうだった。
校門を通り抜けた。

 

 

夢見心地だった。
途中重い雲の隙間からうっすらと陽が差してきて、水滴が反射した世界はキラキラと輝いて見えた。1つの傘の下、無言で歩く男子生徒二人。歩道橋があるほどに車の行き交いが激しい大通りを右折し、静かな住宅街へと入っていったところだった。

「さっきの話の続き。してもいいですか」
「…」
「その、生徒会役員選挙に推薦されてしまって……あ、べつに生徒会が嫌ってわけじゃないです。推薦されたわけですし、ちゃんとやりますけど」
「?」
「推薦してくれた友達がオレの推薦者として、応援演説を読み上げるんですけど、それが…」
「読んでみて、オレってそんな人間なのかなあ……って思っちゃったんです。自分の事、しかもいいことを言われているはずなのに、どこか他人のようというか、オレっていう外側のいいとこだけ持ち上げられてるというか、宙に浮かされているような気分になっちゃって…」
「先輩、お願いです。正直に言ってください。オレをっ……。…清水涼春を、どんな人間だと思っていましたか?」
「……」

眠気に襲われているかのような、ぼやけた頭で返答した。

「希望の光だよ」

「光…」
「決して届かないけれど、広く多くの人々の心に希望を抱かせる、唯一の存在だ」
「先輩のそういう、比喩表現というか…ロマンチックな言葉遣い、初めて聞きました」
「…そうかい?」

少しずつ、光が差し込んでくる。

「えっと。もっとこう…現実的な目標を掲げる人だと思ってたんですけど……」
「『真面目で優しく、皆の期待を背負って責務を全う出来る生徒会役員になるだろう。』…なんて、普遍的な誉め言葉のほうが良かったかな?」
「うう……。友達の応援演説が、まさにそういう感じで……」
「それでは、プレッシャーばかりかかるだろうね」

肩まで下げて、気だるそうな、しょげた様子で答えた。

「ああ~。先輩に言ってもらいたかったなあ……」
「すまない。会長だから直接手伝えなくて」
「謝っても仕方がないでしょう、先輩。そもそも、先輩が会長やってなかったら、オレ、引き受けようとすら思いませんもん」
「…そうだね」

火照りを感じる。
顔を向けて、名前を呼んだ。

「…ハル君。上下関係があるとはいえ、ここは校外だ。敬語は抜きに、名前で呼んでくれないかい」
「えっ」

彼は、驚きの声をあげて立ち止まった。もう傘はいらないのだが、もう片方の手で彼の手をしっかりと覆い、顔を近づけた。

「お願いを聞いたお礼」
「……そ、そんな急に…言われても…ですよ……?」
「同学年の友達と話すときのように。出来るだろう?」

一間置いて、彼はため息をついた。

「はああ……しょうがないなあ先輩は。分かりました。あ、うん。分かった」
「……」
「…佐ヶ浦、て、名字でもいいん、だよな?」
「……」
「何をにやけている、んだ?様子が変だよ先輩」
「…」
「ああうん…佐ヶ浦……。先輩を先輩って呼べないのがものすごくくすぐったい……」

「上下関係、気にしなくていいんだよな?…すこしかがんで」

手招きしながらそう囁かれる。僕はよく分かっていない様子で背中をかがめた。

すかさず伸ばされた両手で僕の頬を覆って……。ほんのすこし傘が傾いて、二人の上半身を隠した。

傘が落ちて地に当たり、跳ねたとき。
世界は、真っ白に包まれていた。

 

 

 

うっすらと空いたカーテンの隙間から白い朝日が差し込む。

ゆっくりと起き上がった僕は、頭だけ白い光に照らされながら茫然としていた。

…………夢。ゆめ…?
本当に?今のは夢だったのか?
だって彼が……僕に……。

ゆるゆると顔を下ろした。当然、視界の中には僕一人しかいない。先程の出来事が夢だとしてもすぐ直前まで目の当たりにした事実を反芻し……結果、僕はそのすべてを飲み込めなかった。彼の唇が触れた箇所を自身の指でなぞって触れ、確認する。わずかに空中に甘く漂う残り香を感じて、肥大した想いが、熱を帯びて……。全神経を使って必死に思い出そうとしてありありと思い出してしまうほどに感覚が残っている。ますます興奮した。寝返りを打って、抱え込む。

 

バタン!と乱暴な音がしてドアが開かれたのと、僕が情けない格好で脱力をしているのが、ほぼ同時だった。

「はぁあああああああああああああああ!!!!!!!!!!」

耳が破けそうなほどの大声を聞いて、そちらへ目を見開いていた。

「やめて!!!!やめてはやくッ!!!!!!」
「……っ!ごめん………人が、その。いるとは思わなくて……」

ムッ!と口で唸ったその人物は、部屋のドアが壊れんばかりの勢いで乱暴に閉めて出ていった。と思いきや再び、今度はそろっ、と小さく開けて、「あさごはん!」と叫んでやっぱり乱暴に閉めていった。
何だったんだ今のは……。恐る恐る布団を剥いで、寝具から降りた。

 

「……」
「……」

座った僕を横切って、机に皿を無言で置いていく。
サラダ、スクランブルエッグ、食パン、ヨーグルトなど…。

ぱんっ、と手を合わせて。

「いただきます」

黙々と食べ始めた。そっと手を伸ばして摘まんだ食パンを口に押し込んだ。この少女は誰だ?知らない。だが、どこかで見かけたことがあるような、ないような……。
考えながら一品ずつ片付け、最後のヨーグルトにスプーンを突っ込んだところだった。

「今日は急ぎ?」
「……」
「さっさと行きなよ」
「……あぁ」

「これ!忘れないでよね」

差し出されたのは、ピンクの包みのお弁当だった。
それを見て、あ、と口に出てしまったのは、先日同じものを抱えて結局口に出来なかったからだ。

「すまない、食べている余裕がないかもしれない」
「いいよ。持ってって」

「いってら、おにーちゃん」