春間近のあたたかな陽気が降り注ぐ空想世界。その世界の片隅でボーッとしている青年、秋良がいた。秋良は、人通りは少ないが手入れの行き届いた白い街の中の、これまた白色の洒落たベンチに座っていた。紙に包まれた手元のパンを見ても、まずまずといった裕福な装いをしているが、秋良の視線は昼食でも空でもなく、どこでもない場所を虚ろに漂っていた。
白い鳩が足元の近くを通りすぎるように寄ってきても、チラリと見ただけで、視線はまたどこでもない場所を漂う。
悪の王として世界を支配し、失脚し世界と共に喪失した。
妄想の世界をさ迷い、あの子に導かれ、堕落し消失したはずだった僕は奇跡的に空想世界へまた戻ってきたのだった。
今は仕事場と、泊まっている部屋を往復するだけの毎日を送っている。仕事、といっても僕がしているのは、『空想管理局長』という名の誕生日席に座って、よく働いている局員達を俯瞰して見ているだけ。文字通り一人だけ突出した場所に鎮座する僕に時折、気を遣って声をかけてくれる局員達もいるのだが。その瞬間、ふと、僕ではない誰かをねぎらっているような気がして
ーー酷いことを考えるな……。皆がこうして、僕の完全復帰を願い、助けてくれているというのに……。だからこそ、局長という立場に僕を置いてくれているというのに。”僕が僕になろうとしている”ことは至極当然の事だけれど。”今の僕はすでに僕であるのに”という思いが頭をよぎって、気分が悪くなっていった。
(ここに、管理室で秋良の事を見かけて気にとめるユサちゃんを入れる)
幾日か経った日、空想世界の最も偉大なる存在、女神に呼び出された。空想世界の中枢にそびえ立つ管理室の、さらに上空にある謁見室に入った僕は、以前彼女の使いの者達が以前やっていたのと同じように 彼女の前で膝跪いた。僕としての感情や以前の振る舞いはともかくとして、今の僕は彼女の支配下にいるのだ。
「あぁ、いいわそんなの!あなたにそんなかしこまられても困るわ。そこ座って」
「……」
彼女に勧められて雲で出来た椅子に腰かけると、筒状に丸められた何かを持った星霊がどこからか飛んできた。女神は受け取った書物に目を通して何度か頷いた後、視線を僕の方へ戻して話しかけてきた。
「そうね、カルテやあなたの様子を見ると、回復傾向に向かってるわね。まだ新しい体は定着しきってないみたいだけど……この調子なら、じきにごく普通の生活を送れるようになるわね」
「あぁ。ごく、普通の生活を、ね」
歯切れの悪い返事をした僕に、しばし疑問の眼差しを向けた女神だった。
「元気がないわね。どうしたの?」
「……何ともないんだよ」
「本当に?」
「………………」
僕は視線を足元に漂わせ、ますます元気のない反応をしてしまう。
素足で床を歩く音がすると、僕の視線はふいに持ち上げられた。
顔に手を添えられたまま、僕の目前には目を細める彼女の顔が映し出される。
「そんなに落ち込んでいたら『何ともない』なんて、普通言わないわよ」
「………」
「分かるわよ。秋良は私の子だもの」
先程までの声よりも明るく振る舞う女神の声が、謁見室にしんと響いてくる。
「ひとまず!今日から外出を許可するわ。外に出たら刺激も得られるんじゃないかしら?」
他にも、あなたのために何か出来る事はないか考えておくわ、と言い、子供をあやすように彼女は僕の頭を丹念に撫でた。体の定着のためにも 就寝の時間以外で外に出る事を勧められたため、こうして外に出て陽の光を浴びるようになったのだが……。
この世界の、最も偉大な彼女に相談した後なのに、こんな有り様だ。仕事はほとんどすることがないとはいえ、これではますます身が入らないではないか。
バタバタと聞こえてくる無数の羽音に、僕はやっと現実に引き戻された。
あ、と声に出たのも束の間、持ってきていた昼食のパンは既に地に落ちて、群がる鳩につつかれて無惨な様に変わり果てていたのを見てため息が出た。
おもむろに立ち上がり ここではないどこかへ歩きだすのであった。
次の日。
昨日と同じベンチでほぼ同じように、昼食を片手に呆けている秋良。今日は鳩はいなかったが、相変わらず陽気な日差しが空想世界に降り注いでいる。
ドンチャンドンチャン、と騒がしい音が聞こえてくる気がした。
気がした、というのも。秋良の視界には閑散とした街並みしか見えておらず、騒ぎの原因は程よく遠い場所から聞こえてくるようであったからだ。
余計な事に巻き込まれるだけだと頭では予見しているのに、秋良の足は音のなる方へと赴いていた。
騒ぎの発生源を辿っていくと、そこには初老がいた。秋良が初老を見かけた途端、円を描くように囲んで佇んでいたネズミのような小さき住民達だったが、サーッと広がるように走っていき、初老一人が残された。卵のように丸々とした体…いやまさしく卵の形をした初老は、酒飲み仲間が居なくなった事に気付いていないようで、愉快にカールしたヒゲを揺らしながら地にひっくり返り騒いでいる。
普段の僕ならば、この初老の有体は一言言いたくなるようなひどい様子だったが、正気を失っている最中の出来事だったためやはりただの騒ぎだったか、という程度にしか思えず、何も言わずに来た道を引き返そうとした。
「んむぉ……酒盛り相手が居なくなってしまった……」
と、初老は口をモゴモゴさせたかと思うと、突然ビシッ、と秋良を真っ直ぐ指差した。
「丁度良い。君ぃ、付き合いたまえ!!」
「…………」
僕が?と明らかに嫌そうな表情をしていると、初老は酔っぱらっているのか捲し立てるような口調でこちらに向かって怒鳴ってきた。
「真っ昼間から酒を浴びているワシは落ちぶれ者同然だと申すか?だが、君ぃの顔色はワシと比べぇても如何せん良ろしくない!!」
「はあ……」
何故ここで断らなかったのか、後で思い返すと不思議でたまらない気持ちだったが。僕は屈んで、タダ酒を貰う事も無く、話し相手として付き合うことにした。
豪快に酒を飲み進める初老と、持ってきていた昼食を思い出してもそもそと口の中に片付けていく秋良。半ば適当に聞き流していたのだが、話は彼のかつての業績…武勇伝に変わっていて、気付けば秋良は早々に食べ終わった昼食の包みを握りしめたまま、初老の話に聞き入っていた。
若い頃の初老は『荒れ野を旅しながらサーカスを開いていた』らしい。
紛争の激しかった荒れ野には、娯楽という娯楽が無かったため、小さな客達で賑わっていたという。大繁盛…ではなかったが、旅を続けられるだけの反響はあったという。
だが、旅の先々で住み着く者達。家族を増やす者達。夢打ち砕かれて足を止めてしまった者達。様々な理由でサーカスの団員は散り散りになってしまい、最後には初老と初老の奥さんだけになってしまったらしい。その時、まばゆい光が現れて、この世界へと飛ばされてきたのだという。他の世界の存在はいくつかの別世界の住民達の間でも噂になっているようで、空想世界もその噂の1つとしてはびこっているようだ。
そして、空想世界が一番ビッグな世界だということを知った。
世界の中心地、空想世界にたどり着いたからには、新たな形を追い求めたい、と奮い立って熱弁した。
「どうかね?素晴らしいだろう?」
「……あぁ」
「そうだろう!そうだろう!?ワシの99つある中でも、最も偉大な話である!」
ふいに疲れたといった風に伏目になると、今まで空を見上げていた初老は秋良の方を見やった。
「酒のお供が欲しいのォ……。君ぃは何か、無いのかね?」
「無いって、何が……?」
「過去の栄光じゃァ!誰しもちっぽけなガラクタだとしてもキラリンと光るエピソードがひとつやふたつあるを内に秘めているものであろう。さあ、その宝話をワシに聞かせたまえ!!」
ヒゲを指で絡めて撫でながら、ふんふんと上機嫌になった初老は秋良に話をせがんだ。
「いや、僕はまだこの世界に帰って来たばかりで……。貴方が期待しているような話は何一つないと思うけれどね」
「別の世界へ旅に出て、帰って。ホォ…………」
「そこに壮大なドラマは無かったのかね?」
「ドラマ?」
聞きなれない言葉に思わず聞き返した秋良だったが、初老はそれには言葉を返さず、秋良が話し始めるのを待っているようだった。
仕方なく、秋良は少年の頃の反逆が発端で神を裏切り、魔王となり世界を支配していた事。そして、自身の責務を遂げることも、最も尊敬していた彼と…彼女との約束も何一つ果たせないまま、魔王として死んでしまったことを話した。秋良自身はこの事に関して人に話したいとはそれ程思っはいなかった。それゆえ嘘をついても良かったのだが、熱弁してくれた初老に対して失礼であるのと、初老の熱い昔話を聞いているうちに、何だか秋良は自分の事を聞かせたくてたまらない気持ちが溢れてきて、つい話してしまっていた。
あらかた話し終え、秋良が息を吐き、初老を見やると…。何という事か。おおぉ、おおぉ、と小さな体は震え上がっていた。
しまった。初対面の、ましてや上機嫌に酒を嗜んでいる最中に濁すどころか怯えさせるような話をしてしまったとは。大体僕はもう魔王ではないというか、魔王はすでに他にいるんだし、信じてもらえないような可笑しな話をしてしまったのではないか、と心配しながら思案していると。
「素晴らしい!!はて、何と言う題名(タイトル)かねッ?!」
「……タイ……? えっと、これはそういうものではないし。いや、……正確に言えば僕が作った話とも言えなくはないけど……………うん……?」
初老は鼻息荒く近寄っていて、思わず固まってしまった秋良は身動きがとれなくなっていた。
「ますます素晴らしい!!!」
「あ……あぁ……それは、どうも……」
「覇気が無いの~~~実に勿体ないッ!!ワシのスタジオで俳優をやらんかね…ッ!?」
このあと、俳優としてスカウトされて初老のスタジオに招待される秋良と、「何言ってるノん!昨日までラジオをするラジオをするっとあんなに息巻いていたじゃないノ!?」
「脚本はワシ!」「カメラもワシ!」「演者は集める!!」「それだけじゃお客さんは集まらないノよん!」「客…!客もワシがどーにかするッ!!!;;」
と口喧嘩する初老と瓜二つの形をした奥さん。その騒がしいやりとりを視界に捉えて少々面食らった秋良。先行きの見えない試みだが、押しに屈した秋良はカントクの野望に協力することにした。